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まだ彼女が牙も爪も隠す、ただ小さいだけの獣だった頃の話。

彼女にはお気に入りの場所があった。
そこは彼女の居場所ではなかった。けれども不思議と心の落ち着ける場所だった。
居心地が良いと感じるのは彼女だけではなかったのだろう。小さかったり大きかったりするものたちの姿を目にしない日はなく、いつもそこには何かしら生きているものの姿があった。

彼女は小さかったけれど、群れを作るような草食の獣ではない。
それなのにその場所に腰を落ち着ける日が増えていったのにはふたつ理由がある。
ひとつは、自分以外の者たちが集まる賑やかさ。
ひとつは、その場所にある、大きな樹。
晴れすぎた日には、強い日差しをそっと遮り、凍えてしまいそうな雨の日には、落ちる雨粒を和らげてくれるその枝葉。
空腹を覚えた頃に、たまにぽとりと落ちてくる、小さな果実。

自然を装って施されるそれらを、他のものと一緒になって受け取る内に、彼女はほんの少しの違和感と、何がしかの感情を感じるようになった。

この樹はなにもので、どうしてここに在るのだろう?

小さなだけの獣でしかなかった彼女であるから、その樹が何であるか、なにを成す為にそこに在るのか、見当もつかず知る術もなかったのだけども。
そもそも、知ろうとして知る事の出来るものばかりではない…という位は、小さなだけの獣である彼女も理解している。

小さかったり大きかったりする生き物たちの上に、分け隔てなく広がる、木陰や雨宿りの為の枝葉。見上げる彼女はただの小さなだけの、取るに足らない小さな獣。

落ちてくる果実があるのは、見えなくとも実っているのだという証。
だけれども、この樹の花を、小さなだけの獣は目にしたことがない。

――いつか、花を咲かせる姿を、見せてもらえたら、わたしはとてもうれしい。

漠然とした願いが彼女の心に生まれて、その望みは長く経った時間の中に薄れもせず、その胸の中に小さく灯りを灯し続けることになった。

取るに足らない小さな獣の、小さな願い。

物語にははじまりが必ず必要なのだとしたら、恐らくはこの想いが、すべてのはじまり。

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ちいさなけもののものがたり」カテゴリの記事

  • (2012.03.22)
  • (2012.03.18)

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